昨日、オートバイ用品店の駐車場で缶コーヒー飲んで休憩していたら、20代半ばと思われる仲睦まじい男女のライダーが目に留まった。驚くべきことに両人とも最上級と呼んで差し支えないロードスポーツバイクが愛車のようだ。注目しない訳にはいかない。
二人とも上から下まで最新ライディングウェアを小奇麗に着こなしていて、従来のコアなオートバイ乗りとはちょっと違う、何というかすごーく「正しい」雰囲気が漂っていた。 男性の方は白い望遠レンズ(高価かつ高性能)を装着したキャノンの一眼レフカメラを腰にぶら下げていて、出発しようとバイクにまたがった彼女に向って撮影を始めた。きっとインスタにアップするのだろう。
時代が変わったことを痛感させられてしまう。
どちらが正しい、悪いの話ではなく、僕らの世代(40代以上)が若かった頃の「バイク観」では、これらの行為はとてもカッコ悪いとされていた。大なり小なり反逆的なニュアンスを込めてオートバイに乗っていたからだ。べつに犯罪行為をするわけではないけれど、心の中のワル、陳腐な言い方をすれば「自由を求める心」をオートバイで走ることで発散させていたのだ。スーパーカブでのろのろ走っていても心理的には爆走しているのがオートバイだった。オートバイに乗るということは内なる自分を解放して、別の自分になれると(なぜか)信じて疑わなかった。
だから「孤独」だったり「夜」だったり、「カスタム」や「ロングツーリング」、「旧車」、「缶コーヒー」、「ロックンロール」……そういった決して社会的とは言えない、無駄なコトやモノがオートバイ乗りには愛好された。そしてこうしたイメージは映画や音楽、雑誌、小説などによってさらに強固に形成されていった。でも、きっと件の彼ら彼女らのような今の若者にそのイメージは共有されていないと思う。国内二輪市場がものすごい勢いで縮小していくなかで、若者への訴求はずいぶんとフレンドリーかつ健康的なものへと変化しているからだ。そしてかつてオートバイが持っていた特定のイメージは切り離され、単にカッコいい乗り物になった。
お洒落で華麗な暮らしぶりをSNSでアピールする、それは今の若者にとって日常的な行為であり、いまオートバイに乗ることもその一部に組み入れられている。内的ではなく、外的な、いわゆるファッション化が進んでいるのだ。 もちろん、皮肉でもなんでもなく正常な進化だと思う。
「ばくおん!!」を読んで二輪免許を取った子と私とでは、そりゃオートバイに求めるものは大きく違う。 「不運(ハードラック)と踊(ダンス)っちまった」などとワケ分からん事を呟いて心が高揚したのはもう遠い昔のことである。
他人を引き合いにするだけではフェアではないので、自らの恥もさらしておく。これは確か21歳ごろに山梨県大月あたりにツーリングに行ったときの写真だと思う。所有していた3台のうちの1台がこのストリートマジックだった。当時、インスタがあったらやはり自分も投稿しまくっていたと思うし、きっともう少し「映える」マシンを選んだことだろう。若者の志向は時代を映す鏡である。
(文・写真/佐藤旅宇)
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