コイツは、今日も遅い。
アクセルを回しても、軽トラックに抜かれ、原付スクーターにあおられる。
一速から二速、そして三速。非力なエンジンが小さく唸るたび、足裏に微かな振動が伝わってくる。その、どうしようもない非力さが、ドロップアウトを決め込んだ今日の自分には心地よかった。
朝から30℃を超える空気が、アスファルトの上で揺らめいている。
Tシャツの背中はすでに汗でぐっしょりだ。
ヘルメットの中は蒸し風呂みたいで、額を伝う汗が目にしみる。
なぜこんな日に、わざわざ江の島なんか目指してるのか。自分でも理由はよくわからない。
俺は暗示でもかけられたかのようにアクセルを回す。
とにかく、どこかへ。どこかってどこだ?
そんなこと知るもんか。
コイツってのは、ホンダのスーパーカブのことだ。1992年式だから、もう30年前の老体だ。
もとは濃紺のボディだったが、長年紫外線を浴び続け、今ではすっかり色あせてしまっている。
20年以上前、取材で知り合った人に「いらないから持っていってよ」と言われ、引き取ったものだ。
今朝、ゴミを出しに外へ出たとき、なぜかコイツの存在が妙に気になった。
もしかしたら、この小さなバイクが鬱屈した気分の捌け口になるんじゃないか、そんな予感があった。
それはもう遥か彼方にあった10代の記憶だった。
キックを二、三度くれてやると、くぐもった排気音が目を覚ました。
原稿? 締め切り? クライアント? もう全てがどうでもよくなって俺は走り出した。
仕事は十年以上、雑誌ライターをしている。
だが派手な成功なんて一度もない。取材先で頭を下げ、編集部の無茶ぶりに振り回され、原稿料もギリギリ。
それでも夜の安い居酒屋で、気の抜けたハイボールを流し込みながら、どうにか生きてきた。
去年、離婚した。十年続いた結婚生活は、あっけなく終わった。
仕事を優先しすぎた俺のせいだ。
彼女の不満はずっと積もっていたのに、見て見ぬふりをしてきた。
妻を責める資格なんて俺にはない。
そのくせ、未来のことを考えれば考えるほど、焦りだけが募る。
貯金もない。仕事も減っている。
フリーランスという言葉が、ただの逃げ道にしか聞こえなくなっていた。
そんな日常を、俺は滑稽にも時速30キロしか出せないバイクで振り切ろうとしている。
藤沢あたりのコンビニで、久しぶりにコカ・コーラを買った。
ノンシュガーではないやつを飲みたい気分だった。
赤い缶に白いロゴ。プルタブを開けると、しゅっと炭酸が小さく弾けた。
ぬるくなる前に、俺は喉を鳴らして飲み干す。
目の前を、数台の大型バイクが轟音を立てて通り過ぎていく。
クロームメッキがまぶしいアメリカンクルーザー、赤いスーパースポーツ。
かつて熱中した憧れのバイクたち。いまはすべてが他人事に思えた。
でも、不思議と羨ましさはない。
やがて、海が見えてきた。
太陽は容赦なく照りつけ、ぬるい潮風が吹き付ける。
汗が肌にじっとりと張り付いている。
ビーチの入口近くにカブを停め、海沿いの土手に腰を下ろした。
安タバコに火をつけると、紫煙がゆっくりと空に溶けていく。
そのときだった。背後から、女性の声。
「それ、カブですよね?」
振り返ると、白いリネンシャツの女性が立っていた。
肩までの黒髪を、ラフなポニーテールにまとめている。
きっと普段はもっときちんとした髪型をしているんだろう。
オフィス街に似合いそうな、ストレートのセミロングか、落ち着いたボブヘアか。
鼻筋の通った整った横顔、すらりとした細身の体つき。
一見すると二十代にも見える。
だが、立ち振る舞いの落ち着き、声の低さ、言葉の選び方には、年齢相応……いや、むしろ俺より年上かもしれない、そんな余裕がある。しっかりとしたキャリアを感じさせた。
ジーンズは経年変化で色が美しく抜けていて、二度折り返された裾からは、細いセルビッチが覗く。サンダル履きの足元には、砂が少しだけついている。
彼女の手にはウィルキンソンの瓶入りジンジャーエール。
軽く喉を潤すように飲むその仕草に、どこか品のある生活感がにじんでいた。
「ええ、まあ……古いですけど、コイツ」
そう答えながら、俺は無意識にタバコを砂に押し付けた。
「いいですね。私も昔、乗ってたんですよ、カブ」
彼女はそう言いながら、隣に腰を下ろす。
リネンシャツがふわりと揺れて、海風に混じってジンジャーエールの香りがかすかに届いたような気がした。
海を眺めながら瓶を口に運ぶと、喉に炭酸がしみたのか、小さく咳き込んだ。
その仕草さえ、どこかサマになっている。
「いまはベスパなんですね」
俺は駐車場の隅にある白いスクーターに目を向けた。
「ああ、あれ。PX150です」
彼女は軽く笑った。
サングラスの奥でどんな表情をしているのか、それがまた妙に気になった。
「ハンドチェンジで、最初はすごく苦労しました。でも慣れると、あのクセがいいんですよね」
「わかります。女性があれ乗ってるの、珍しいですよね」
「でしょ?」
そう言って、彼女は肩をすくめた。
話は、とくに目的もなく続く。都内の広告代理店で長く働いていたこと。部署異動、上司との確執、そして思い切って退職届を出したこと。
「しんどかったけど、辞めたらなんか、急に世界が広くなった気がして」
彼女はそう言うと空を見上げた。
サングラス越しでも目元が少し緩んだのがわかる。
「最近はあんまり聴かないけど、昔はJoni Mitchellとか、Suzanne Vegaとか。あと、80年代の邦楽……松任谷由実の『ダイアモンドダストが消えぬまに』とか。あの感じ、好きでした」
言葉の端々に、彼女が歩んできた時間の重みがにじむ。
「カブに乗ってると、変な人に声かけられますよね」
「たしかに……今みたいに?」
普段は頭の回転がそれほど良くない俺だが、このときの受け答えは少しばかり冴えていた。
彼女は少しだけ笑った。
「でもね、たまにバイクで海まで来て、誰かとこんな風に話すと、なんか、また頑張れる気がするんです」
彼女はセルビッチの見えるジーンズの裾を無意識に指でつまんだ。
空の色がゆっくりと変わりはじめる。夕方になり、潮風がほんの少しだけ涼しくなってきた。
「じゃ、そろそろ帰ります」
彼女は立ち上がり、ベスパへ向かうと勢いよくキックスターターでエンジンをかけた。
一発で目を覚ましたPX150は、白煙をひとくゆらせ、甲高いアイドリングを始めた。
スタンドを蹴り上げ、彼女はハンドチェンジを小気味よく操作して、駐車場を出ていく。
白いシャツが、最後の風にふわりと揺れる。
ヘルメット越しに、もう一度こちらを振り返り、軽く手を振った。
俺は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
海沿いに立ったまま、しばらく波の音を聞いていた。遠くで犬を連れた親子連れが笑いながら浜辺を歩いている。さっきまで二人が座っていた場所には、周囲より乾いた空気がわだかまっている気がした。
かえり道。俺の心の変化を見透かしたように、エンジンがいつもより軽快に回る。
信号待ちでスマホを確認すると、編集部からの催促メールが三件、LINEが五件、着信も一つ。深く息を吸い、画面をオフにしてポケットにしまう。
明日になれば、また同じ日常が始まる。
どうせ遅くしか走れないのなら、ゆっくり流れる風景のなかで光を見つけるしかないじゃないか。乾いた風が、朝より日焼けした俺の顔をなぶる。
それぞれのスピードで、それぞれの人生を、さ。
遠ざかっていた10代の記憶は思ったよりも近くにあった。
(文と写真/佐藤旅宇)
※この作品はチャットGPTに設定を指示したうえで骨子を作成し、著者による5度の修正を経て完成させたものである。
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