オートバイと旅に出る『インターセクション』

 八月の太陽は容赦なくアスファルトを焼き、Tシャツ一枚でバイクに乗ってきたことすら後悔させるほどの熱気を吐き出していた。

山梨県大月市――
国道沿いにあるドラッグストアの前で、僕は母親に頼まれた買い物袋を片手に、ジェット型のヘルメットを抱えて立っていた。額から流れた汗が、顎を伝ってぽたりと地面に落ちる。

「……あれ、ナオキくんってバイクに乗ってるんだ」

その声が耳に届いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。リオだった。高校の三年間、ずっと心の片隅で追いかけ続けていた女の子。けれど、まともに言葉を交わした記憶なんて、ほとんどない。

「あ、うん……」

自分でも情けないと思うくらい、ぶっきらぼうな返事しかできなかった。ヘルメットを持つ手に、じわりと汗がにじむ。隣に停めてあるのが、僕の愛車、81年式のDT125だ。白地に赤いラインが走る丸いタンクと、高く跳ね上がったフロントフェンダーが特徴的なオフロードバイクである。近所のバイク屋の片隅で雨ざらしになっていたのを、アルバイトで貯めた十万円で譲ってもらった。


「バイクって、なんだか自由な感じ。すぐにでも遠くまで行けそう」


彼女は、真夏の向日葵みたいに屈託なく笑った。

その眩しい笑顔が、僕の胸をちくりと刺す。東京の有名私立大学への進学予定のリオと、卒業後は叔父が経営する町工場で働くことが決まっている僕。高校最後の夏休みが終われば、僕たちの前にはもう決して交わることのない、あまりにも違う道がのびている。

その厳然たる事実を突きつけられたのは、つい最近のことだった。見えない壁が、僕と彼女の間にそびえているように感じた。


「ツーリングっていうんだ。バイクで遠くへ行くこと」


まるで自分を奮い立たせるように、反射的に言葉が口をついて出た。たかだか125ccの原付に乗っているだけなのに、知ったような口を利いてしまった。

駐車場から「プップッ」とクラクションの音が聞こえた。


「あっ、お父さんを待たせているんだった。ナオキくんは、たくさん旅をしてるんだね。すごいな。今度、旅の話、たくさん聞かせてよ」

リオは小さく手を振って、メルセデスベンツのステーションワゴンに駆け寄っていく。ワックスがしっかりかかったメタリックグリーンのボディが強い陽射しを受けていやらしく光った。

その後ろ姿を見送りながら、僕はヘルメットを握りしめた。

旅の話? 僕が語れる旅なんて、この町から隣町までの短い距離を走った記憶くらいしかない。彼女の言葉は、悪意のないナイフのように、僕の空っぽの経験をえぐった。

 その夜、自室の床に地図を広げていた。目的地は、北海道。地図の上では、本州に比べて大して大きくは見えない。この夏休みは、僕に残された最後の猶予期間だ。アルバイトで貯めたお金もある。行くなら、今しかない。我ながら大胆な決断に身震いした。

リオに、旅の話を聞かせたい。見栄や虚勢ではなく、僕自身の言葉で。その一心だった。彼女が見せてくれたあの笑顔を、もう一度見たいのだ。


「親父、オレ、北海道に行ってくる」

リビングでテレビを見ていた父親に告げると、案の定、呆れた顔をされた。

「はぁ!? 何を考えてるんだ。卒業したら叔父さんの世話になるって決まってるのに、最後の夏休みくらい大人しくしてろ。大体、あのバイクでか?」

当然、猛反対された。母親は心配そうに眉をひそめている。でも、僕の決意は揺らがなかった。これは、僕にとって必要な旅なんだ。リオと対等に話せる自分になるための挑戦なのだ。

 大洗港の埠頭は、潮の香りと、陽に焼けたアスファルトの匂いが混じり合っていた。フェリーの巨大な煙突が青空に突き刺さり、その向こうに入道雲が湧き上がっている。係員の指示に従ってバイクを船倉の甲板に停めると、周りの光景に圧倒された。ZZ-RやV-MAXといった大型バイクがずらりと並び、威容を誇っている。

その中で、僕のDTはまるでおもちゃのように小さく細く、頼りなく見えた。

リアシートにゴム紐で無造作に固定したキャンバス製のバッグが、僕の旅の準備の心許なさを象徴しているようだった。バッグの中には、数日分の着替えとテント、寝袋の他に、赤い文庫本とソニーの携帯ラジオを忍ばせてある。

これから始まる未知の旅への期待と、途方もない不安が胸の中で渦巻いていた。

苫小牧に着いたのは、翌日の午後だった。空はどこまでも高く青く、本州の湿った暑さとは違う、カラリとした空気が肌に心地いい。これからの旅の始まりを祝福してくれているようだった。

走りだしてすぐ、見慣れないオレンジ色の看板のコンビニに入り、梅おにぎりを買った。一口かじると普段食べなれたコンビニよりも明らかに強い塩気が口に広がる。汗をかいた身体に染みわたるようだった。

苫小牧から日高方面へ、国道235号線をひた走る。この時の僕は北海道の地図は縮尺が違うことにまだ気づいていなかった。

どこまでも続く直線道路。そこを僕は大きな積乱雲をバックにDTで駆けている。

望遠レンズで圧縮された風景が脳内に浮かぶ。以前、雑誌で見てあこがれたシーンに自分がいることが、たまらなく嬉しかった。

はやる気持ちをどうやったって抑えられない。空冷2ストロークエンジンは空気を切り裂くような甲高い音をあげ、小さなピストンが猛烈な勢いで上下しているのが伝わってくる。スロットルを大きくあおると、マフラーから勢いよく白煙が上がった。

夕方には目的地に着くつもりだった浦河は、あまりにも遠かった。スピードメーターの針は55~65キロあたりを指したままだというのに、同じような景色が延々と、まるで絵巻物のように後ろへ流れていく。道沿いのガソリンスタンドで給油した際、店員のおじさんに「これから浦河まで」と告げると、「まさか、このバイクでかい?」と驚かれた。

陽が傾き、心細さが募り始めた頃、偶然「オートキャンプ場」の看板を見つけた。ブロックタイヤが砂利を軽く蹴り上げるのを感じながら進むと、小さな管理棟があり、人の良さそうなおじさんが出てきた。僕の顔と小さなバイクを見るなり、笑った。


「兄ちゃん、若いね。高校生かい? 旅はいいよな。今日は空いてるから、好きなところに張りな。金はいらんよ。夜は冷えるから、ちゃんと着るもんはあるかい? あと、クマにだけは気をつけろ」


温かい言葉に気持ちが少しだけほぐれた。芝生のサイトは固く、テントのペグがなかなか刺さらない。そこらへんに落ちている石を探してきて、ハンマー代わりに打ち付けた。

持ってきた寝袋は夏用で薄っぺらく、昼間の暑さが嘘のように、地面の冷たさが容赦なく背中に伝わってくる。

夜、ポケットラジオのスイッチを入れると、AM放送から演歌が流れてきた。遠くのサイトでは、家族連れがバーベキューを囲んで楽しそうに笑っている声が聞こえる。その光景が、僕の孤独を一層際立たせた。

コンビニで買った焼きそばパンを一人でかじりながら、満天の星が広がる夜空を見上げた。山梨の町の空とは比べ物にならないほどの星の数に、僕はただ圧倒されるしかなかった。

翌朝、DTのエンジンがかからなかった。典型的なプラグのかぶりだ。車載工具を引っ張り出し、プラグレンチでプラグを外す。先端が黒く湿っていた。ウエスで丁寧に拭き、エンジンブロックに当ててキックペダルを踏み込むと、青白い火花が飛んだ。大丈夫だ。プラグを元に戻し、再び力強くキックすると、ビィーンと空冷2ストローク特有の乾いた排気音が響き渡った。自分の力でトラブルを解決できたことに、小さな達成感が込み上げた。


帯広を目指して内陸へ向かう途中、空が急に暗くなり、バケツをひっくり返したような夕立が叩きつけてきた。慌てて上下セパレートのカッパを着込んだが、あっという間に足元はぐしょ濡れになり、まだ先の長い道程を思うと心が折れそうになった。だが、まさにその時……

まるで奇跡のように雲が割れ、西の空に、巨大な七色のアーチがかかった。あまりの美しさに、僕はDTを路肩に停め、呆然と空を見上げていた。雨に打たれた辛さは、一瞬で吹き飛んでしまった。


 その夜は、帯広のユースホステルに泊まることにした。旅人たちが集うロビーの片隅で、時刻表を広げている女の子がいた。肩まで伸びた黒髪に、丸い眼鏡。彼女は指先でページを丁寧になぞりながら、真剣な表情で列車の乗り継ぎを確認していた。その姿が、なぜか強く印象的だった。

「……明日は、どこへ行くの?」


自分でも驚くほど自然に、僕は彼女に話しかけていた。


「んー、根室本線に乗って、根室まで行くか、釧路湿原でのんびりするか、迷ってるんだ」

彼女は顔を上げて、少し大人びた口調で答えた。聞けば、僕と同じ高校三年生で、推薦で東京の大学が決まっているらしい。一人で計画を立て、自分の足で旅をする彼女の姿は、どこか遠い世界の住人であるはずのリオに重なって見えた。でも、不思議と劣等感は感じなかった。むしろ、かっこいいな、と素直に思った。違う世界を生きる人とも、こうして同じ場所で、同じ旅の空気を吸うことができる。その事実が、僕の心を少しだけ軽くしてくれた。

その夜、ユースホステルの固いベッドの上で、僕は勇気を出してリオに初めて手紙を書いた。


『リオへ。

今、北海道の帯広にいます。こっちは昼間は暑いけど、夜は少し肌寒いくらいです。今日はすごい夕立に降られたけど、そのあと、信じられないくらいでっかい虹が出ました。生まれて初めてあんなに大きな虹を見たよ。

ユースホステルで、僕と同じくらいの歳で一人旅をしている女の子に会いました。なんだかすごくかっこよくて、少し話したんだ。

北海道は、僕が思っていたよりもずっと広くて、厳しい場所みたいです。でも、来てよかった。

また手紙、書くよ。

ナオキより』


それから二日後、足寄の町でまたしても雨に降られた。商店街の外れにあった、宿なのか食堂なのかも判然としない古びた店の軒先で雨宿りをしていると、中からいかつい顔の店主が出てきた。

「兄ちゃん、腹、減ってんだろ。ジンギスカン、食ってくか?」

僕の返事を待たずに、店主は「ほら、入れ」と手招きする。断る理由もなかった。

通されたのは畳敷きの小上がりで、真ん中にぽつんと置かれたちゃぶ台の上には、年季の入ったガスコンロが鎮座している。すぐに、山盛りのモヤシと玉ねぎ、そして濃いタレにしっかりと漬け込まれた羊肉が運ばれてきた。熱した鉄鍋に肉を乗せると、ジュワッという音とともに、甘辛い香りが立ち上り、白い煙が部屋に充満した。

「うまっ……!

夢中で肉を口に運んだ。今まで食べてきたどんな肉よりも、力強くて、生命力に満ちた味がした。空腹だったことも手伝って、あっという間に平らげてしまった。店のテレビでは、高校野球の熱戦が中継されている。壁には松山千春のポスターが貼られていて、その横には色褪せた魚拓が飾ってあった。この土地に根付いた、生活の匂い。それがたまらなく心地よかった。

その夜、宿の布団の中で、僕は再びペンを走らせた。



『リオへ。

今日は足寄っていう町で、ジンギスカンを食べました。びっくりするくらい美味しかった。お店のおじさんが、雨宿りしてた僕を招き入れてくれたんだ。

地図の距離感が全然わからなくて、毎日走りっぱなしだよ。本当に、北海道ってでかいな。でも、走っていると、自分がちっぽけなこととか、悩んでたことがどうでもよくなる瞬間がある。

帰ったら、また会って話したいです。これからの旅の行程も書いておきます。

ナオキより』


 それから数日後、この旅のなかで唯一、連泊することになっていた夕張のホテルで僕宛に一通の手紙が届いた。綺麗な字。リオからだった。少し震える手で封を開ける。


『ナオキくんへ。

手紙、二通とも届きました。すごく、すごくうれしかった。北海道の景色や、ナオキくんが感じたことが、手紙の文字から伝わってきて、読んでるだけでドキドキしたよ。

旅をしてるナオキくんのこと、なんだかすごいなあって思います。ジンギスカン、私もいつか食べてみたいな。

無理してない?ちゃんとご飯食べてる?風邪ひかないように、気をつけて帰ってきてね。

帰ってきたら、約束通り、旅の話、たくさん聞かせてください。

リオより』


手紙を握りしめたまま、僕はしばらく動けなかった。胸の奥から、温かいものが込み上げてくる。僕の旅は、ちゃんとリオに届いていた。

帰りのフェリーに乗る前、苫小牧の岸壁で、僕は最後の手紙を書いた。旅の思い出と、芽生え始めたばかりの新しい気持ちを、拙い言葉で綴った。


『リオへ。

もうすぐ北海道を発ちます。たくさん走ったし、たくさん失敗もした。寒くて心細い夜もあったけど、それ以上に、忘れられない景色をたくさん見ました。

この旅で、少しだけ強くなれた気がします。

大洗に着いたら、一番に会いに行きます。

ナオキより』

夏の終わりの夕暮れが迫る大洗港。フェリーがゆっくりと接岸し、巨大なスロープが下ろされる。僕はバイクにまたがり、旅を共にしたライダーたちの列に続いて、ゆっくりと陸地へと降り立った。

その時、視界の隅に、見慣れた姿を捉えた。

白いワンピースの上に薄いカーディガンを羽織ったリオが、駅の売店で買ったらしいオレンジジュースを手に、そこに立っていた。


「おかえり、ナオキくん」


彼女は、はにかむように笑った。


「……なんで、ここに」

僕はヘルメットを脱ぎながら、呆然と尋ねた。


「なんでって、今日帰ってくるって手紙に書いてあったじゃない」

リオは少し照れたように視線を逸らし、僕の隣に並んで海を見た。そして、しばらくの間、僕たちは黙って、寄せては返す波の音を聞いていた。

沈黙を破ったのは、僕の方だった。

「おかしなことだけど、旅に出て、そこからリオに手紙を書いたりしていたらさ、いまの自分を少し好きになった気がしたよ。叔父さんの工場で働くことも、バイクで走るのと同じように頑張ろうって」

僕の言葉に、リオはすこし考えて、微笑んだ。


「手紙さ、ナオキくんが見た景色、感じたこと、伝わってきたよ。……就職、頑張ってね。自分の場所で、ちゃんと根を下ろして生きていくって、すごいことだと思う。ナオキくんなら、きっと大丈夫」


彼女の言葉が、心の壁を、するりと溶かしていく。大学へ行くリオ。工場で働く僕。その事実は、もう僕たちを隔てる壁などではなくなった気がした。


「少しだけ、歩かない?」

リオがそう言って、僕たちは港をゆっくりと歩き始めた。隣を歩く彼女の肩が、時々、僕の日焼けした腕にそっと触れる。

港を吹き抜ける夏の終わりの風は、どこか切なくて、でも甘い香りがした。


(文と写真/佐藤旅宇)
※この文章はAIと著者の共同作業で完成させたものである。


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