自動運転が実現したときに見える風景
自動車が “百年に一度” という変革期を迎えているといわれている。
自動車の起源を、1885年のカール・ベンツが開発したガソリンエンジン車に求めるとするならば、それから130年余。内燃機関を柱にした現在の自動車は、ようやく100年以上続いた歴史の “終わりの始まり” を歩み出したのかもしれない。
約一世紀続いた現行自動車の劇的な変化を語るキータームは、いうまでもなく、「電動化」「自動運転化」である。
ガソリン車とは異なる進化の系としてEV(電気自動車)が台頭し、そのシステム制御を可能にした IT技術をより進化させることによって、自動運転化のメドが立つようになったのだ。
このままいけば、今後ドライバーを必要としないクルマが主流になり、それにともなって、クルマがパーソナルな乗り物から公共交通機関のような存在に移行していく時代が訪れると専門家はいう。
今年(2018年)の9月。トヨタ自動車とソフトバンクという日本を代表するビッグカンパニーが、共同出資による新会社を立ち上げるというニュースがメディアに大きく取り上げられた。
その報道において、トヨタ自動車の豊田章男社長は、「今後トヨタはクルマを売るだけではなく、人やモノを移動させるサービス業務を拡大する」とはっきりと明言した。
そのためには、自動運転の技術が確立されておらねばならず、そのような車両開発を可能にするためには、ソフトバンク社のAI テクノロジーが不可欠になるという判断だった。
マスコミの報道によると、現在世界の自動車産業が「クルマの自動運転化」に血眼になっているという。
自動車業界のみならず、グーグル、アップル、ウーバーなどのIT企業もこの分野に積極的に参入し、すでに自動車会社を超えるデータ蓄積を達成したIT企業もあるとか。
そんななか、スウェーデンのボルボ・カー・コーポレーションは、「ボルボ360c」という新しい時代の自動車を報道陣の前でプレゼンした。
このクルマは、ハンドルもアクセルもなく、ブレーキすら持たず、すべてがコンピューターによる完全自動制御で管理されるといわれている。
ボルボ・カー社は、このクルマを個人に売るのではなく、運送サービスの会社にレンタルし、一種の公共交通機関のように使うことを計画している。
すなわち、ユーザーは、クルマを利用したいときに端末機器などを使ってレンタル会社に連絡を入れ、好きな場所の好きな時間帯にそのクルマを呼び出す。
そしてそれに乗り込み、目的地に着いたあとは、その場で乗り捨てる。
一仕事終えたそのクルマは、今度は次のユーザーの待つところに移動していく。
ボルボ・カー社は、このようなサービスを2033年までに実用化できるレベルに引き上げたいという意向を示したといわれている。
日本でそういう交通システムが実現するには、インフラ整備と同時に、かなり抜本的な法整備の見直しが必要になるが、政府はすでにその方向に舵を切り始めている。
国交省では、2020年までに、一定の条件下における自動運転を可能にした車両を実現し、国連の会議の場で、日本主導による自動運転ルールを策定するための議長国に名乗りを上げる予定だという。
そういう方向がはっきりとしてくると、従来のような、ドライバーがそのクルマの持ち主となる「マイカー」という概念がなくなるだろう。必要なときにだけ、レンタル会社などから呼べばいいからだ。
クルマは、確実に「所有」から「シェアリング」の時代に向かおうとしている。
クルマがもたらした「個の発見」
時代が変われば、政治も経済も変わり、社会も一新されて、人々の意識も変わる。
では、いまのクルマが「自動運転車」として変貌を遂げたあと、私たちの住む世界は、いったいどんな風景を見せてくれるのだろうか。
その前に、クルマという乗り物が人類に与えた影響を少し考察してみよう。
クルマが誕生し、それを購入する消費者が生まれてきた19世紀末から20世紀にかけては、ちょうど欧米の民主主義が確立されていく時代と重なっている。
「民主主義」とは、すなわち人々の間に「個人」という概念が定着しないかぎり成立しない。
クルマの「所有」は、その「個の発見」をうながしたのだ。
「個の発見」は前述したように、政治の場においては、個人が自分の支持する政党や政治家を選び、国政に参加するという民主主義を確立させたが、それだけにとどまらなかった。
企業経営者に対して自分の権利を主張する自立した労働者たちを育て、結婚相手を個人の判断で選ぶ自由恋愛の思想を定着させた。
そういう意識は、すべてクルマを媒介して育ってきたものだ。
クルマは、人間の体力や能力の数十倍・数百倍を持つ機械装置を、人間一人が意のままに操るという人類史上画期的な新境地を実現した。
そのときにクルマのオーナーが感じた「全能感」が、そういう機械を操作できる立場にいる「個」を目覚めさせたといっていい。
「個の確立」は、これまで政治思想や社会構造の視点で語られてきたが、実は130年前に誕生したクルマという新しいプライベート空間の普及によってもたらされたといっても過言ではない。
人類の意識や感受性が変わるのは、新しいテクノロジーが生まれたときである。
人間の意識変化を、政治学や社会学の言葉で解釈するのは、事後的な説明に過ぎない。
蒸気機関車というテクノロジーが誕生するまで、人間がイメージするスピード感は馬の疾走感を超えることはなかった。
しかし、蒸気機関車の発明によって、人間はようやく近代的な新しい速度感を手に入れることができた。
尖った「個」からまろやかな「個」へ
では、クルマがパーソナルな乗り物から、公共交通機関的なパブリックな乗り物に変わった場合、それを使用する人間の意識は、どのように変化するのだろうか。
クルマを所有することによって人間が手にした「個」という概念は変わることはないだろう。
しかし、自動運転車の普及にともない、尖がった「個」から、まろやかな「個」に変貌することは間違いない。
アクセルを煽れば煽るほど、暴力的なパワーが盛り上がっていくことに酔えた官能的な快楽は、自動運転車にはもうない。
走行感覚を楽しむにしても、それはもう電車の車窓を流れる景色を堪能するような、クールな感興にとどまるだろう。
ただ、そこには別の喜びが生まれているはずだ。
自動運転車においては、「運転の快楽」に代わって、家族や仲間同士の交流が、車内の新しい楽しみ方として浮上してくる。
「ボルボ360c」を開発したボルボ・カー社のモーリン・エクホルムディレクターは、こういう。
「ドライバーは運転から解放されることによって、やり残した仕事を移動中に片づけたり、本を読んだりすることができるでしょう。また、移動しながら家族や子供たちとたっぷり遊ぶ時間をとることができるでしょう」
そこには、かつてドライバーが独り占めしていた「運転の快楽」はない代りに、家族や社会との絆を深める新しい喜びが待ち受けている。
モータースポーツがかつてない活況を呈する時代
もちろん、完全な自動運転車が完成したとしても、人類は “自分の能力を超えたモンスター” を意のままに操るという、これまで身につけてきた「ドライバーの快楽」を、そう簡単に手放すことはないだろう。
たぶん、そういうビークルの需要は残る。
未来のクルマが完璧な自動運転システムを整えたとしても、それに満足せずに、“暴走装置” としてのパワー感を秘めたビークルを愛する人たちも消えることはないだろう。
ただ、そういう乗り物は、自動運転車用に整備された未来の交通システムのなかにはだんだん入っていけなくなる。未来の交通社会は、自動運転車を安全に管理するためのインフラで埋め尽くされるようになるからだ。
そうなると、そういう交通システムには制御できない乗り物は、次第に厳しい管理下に置かれるようになっていく。
最終的には、どのような場所で走ることになるのだろうか。
原則としてサーキットか、限定されたオフロードといったクローズドエリアである。
つまり、モータースポーツの場である。
自動運転車が都市交通の中心となる時代というのは、またモータースポーツが活況を呈する時代ともなる。
もちろん、その中心にいるのは富裕層の子弟たちだけかもしれない。
しかし、その時代にモータースポーツに供される車両は、自動運転車の対極にあるクルマとして、ものすごいステータス性を帯びることになる。
かつてのレーシングカーのような、訓練されたドライバーでなければ制御できない “尖がったマシン” が主流になることはないが、デザイン的にはフェラーリやランボルギーニを彷彿とさせるような、アートに接近するフォルムを獲得していくだろう。
「快楽」と「苦痛」は同時にやってくる
けっきょく、どんなに自動運転化が進もうが、そういうクルマには飽き足らない思いを抱く人が必ず出てくる。
なぜなら、人間が感じる「快楽」には、必ず「苦痛」が混じっているからだ。
クルマを運転している人が感じる「苦痛」とは、自分がドライブしているクルマが自分のコントロールから外れてしまうのではないか? という不安感であり、そこから生じる緊張感である。
しかし、そのような「苦痛」を伴うからこそ、「快楽」があるのだ。
「快楽」とは、「苦痛」によって脳内に分泌されるドーパミンによる高揚感のことだ。ランニングハイというのも、それに当たる。
自動運転車というのは、乗員をそのような「苦痛」から解放する車両のことである。
もちろん、そのようなクルマには「苦痛」がない代りに、「快楽」もない。
ただ、事故だけは確実に減る。
現在の自動車事故の97%は、ドライバーのミスによるものだという。
ましてや、どの国においても高齢化が進んでいる現代社会では、高齢者の自動車事故は今よりはるかに増加していくだろう。
その「事故を減らす」という名目があるかぎり、自動運転車の実用化が各国の政府と、各国の自動車産業の至上命題であり続けるという構図は変わらない。
(写真/VOLVO CAR JAPAN、佐藤旅宇)
著者プロフィール
町田厚成 (まちだ・あつなり)
1976年、自動車週報社入社。編集者としてトヨタ自動車広報誌『モーターエイジ』や自動車評論家・徳大寺有恒氏の著書『ダンディートーク (Ⅰ・Ⅱ)』、作詞家・竜真知子氏の著書『TOKYO DAYS』などの編集に携わる。1993年、『全国キャンプ場ガイド』編集長に就任。後に『RV&キャンピングカーガイド(後のキャンピングカースーパーガイド)』を創刊。キャンピングカー情報のほか、映画、音楽、芸能に関する独自の視点を盛り込んだブログ『町田の独り言』の書き手としても人気がある。著書に2003年『キャンピングカーをつくる30人の男たち』(みずうみ書房)ほか。1950年東京生まれ。
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